縦パンとは
カメラの位置を動かさず、カメラの向きを上下方向へ振るカメラワークのことです。下から上へ振ることを「パン アップ」、上から下へ振ることを「パンダウン」と呼びます。
現在、撮影技術を体系的に説明する場合には、カメラを左右方向へ振る動きをパン(Pan)、上下方向へ振る動きをチルト(Tilt)と区別するのが一般的です。そのため、「縦パンという言葉は間違いである」「上下に振るのはパンではなくチルトと呼ぶのが正しい」と説明されることがあります。しかし、映像制作の歴史をたどってみると、話はそれほど単純ではありません。
パンとチルト
撮影技術上の基本的な分類では、
Pan(パン)=カメラを左右方向へ振る
Tilt(チルト)=カメラを上下方向へ振る
と区別します。したがって、この分類に従えば、上方向へ振るのはTilt up、下方向へ振るのはTilt downです。問題は、ここから「したがってPan up、Pan downという言葉は誤用である」とまで言えるのか、ということです。実際の映像制作現場では、Panという言葉が必ずしも左右方向だけに限定されて使われてきたわけではないからです。
1947年、すでに「Pan up」「Pan down」が使われていた
1947年、アメリカでLouis A. Sposaによる『Television Primer of Production and Direction』が、McGraw-Hillから出版されています。テレビ放送の黎明期に書かれたテレビ制作の実務書です。この本では、当時テレビスタジオで使われていたカメラへの指示として、「Pan left or right」に対して、「Tilt up or down」と説明しています。ここだけを読めば、現在と同じくPan=左右、Tilt=上下です。ところが、その直後に、
“Also called ‘pan up’ or ‘pan down’ in some television studios.”
という注記があります。つまり、一部のテレビスタジオでは上下方向についても「Pan up」「Pan down」と呼んでいたことが、1947年の時点ですでに記録されています。
出典
Louis A. Sposa, Television Primer of Production and Direction, McGraw-Hill Book Company, 1947, p.167.
Early Television Foundation収録PDF
※Early Television Foundationは初期テレビ技術に関する資料を保存・公開している団体です。ここで参照しているのは同団体の記事ではなく、1947年に刊行されたSposaの著書をデジタル化したものです。
1960年代のテレビ制作教本では、さらに明確
さらに興味深い記録があります。Edward StasheffとRudy Bretzによる『The Television Program: Its Direction and Production』第3版(1962年)です。同書には「Terms, Cues, and Directions」という、制作現場で使われる指示や用語をまとめた章があります。その冒頭では、用語は放送局によって異なること、若いディレクターが新しい局へ入ったときには、その局で実際に使われている言葉に合わせた方がよい、と説明されています。そして「Pan」の項目には、
Pan up
Pan down
Pan left
Pan right
が並べられています。Pan自体も、カメラを垂直軸または水平軸で回転させ、一方向から別方向へ向ける操作として説明されています。さらに脚注には、上下方向についてはTiltという言葉を使って「Tilt up」「Tilt down」と指示することもある、と記されています。つまり、この本ではむしろPanが広い意味で使われ、上下方向をTiltと呼ぶ用法もあるという説明になっています。
出典
Edward Stasheff and Rudy Bretz, The Television Program: Its Direction and Production, 3rd ed., Hill and Wang, 1962, p.88.
※World Radio Historyは、放送、映画、録音、電子技術などに関する古い専門書・専門誌をデジタル保存しているアーカイブです。ここでも出典そのものはWebサイトではなく、1962年に刊行されたStasheffとBretzの著書です。
「縦パン」は日本だけの誤用なのか
日本の映像制作現場では、上下方向へカメラを振る操作を「縦パン」「パンアップ」「パンダウン」と呼んできました。これについて、「Panとは本来、水平方向の動きなのだから、縦パンは日本独自の誤用である」と説明されることがあります。しかし、少なくとも先の二つの資料を見る限り、そう単純に断定することはできません。1947年のアメリカのテレビ制作書には、テレビスタジオで「Pan up」「Pan down」が使われていることが明記されています。1962年のテレビ制作教本では、Pan up、Pan down、Pan left、Pan rightを同じPanの指示として列挙しています。
したがって、Pan up / Pan downという表現は、日本でPanの意味を取り違えたことによって生まれた言葉ではありません。少なくとも英語圏のテレビ制作現場にも存在していた言い方です。では昔はPanと呼び、後になってTiltへ改められたのでしょうか。これも、そう簡単ではありません。
現代の撮影技術でも「正しい用語」と「現場語」は一致しない
撮影監督Blain Brownによる『Cinematography: Theory and Practice』は、Focal Pressから刊行されている撮影技術の専門書です。同書は各国語に翻訳され、映画教育でも広く使われている専門書として紹介されています。第2版は2012年に刊行されています。(Google Books)
BrownはPanを左右方向、Tiltを上下方向として区別しています。その一方で、Pan upという言い方について、技術的には正しくないとしながら、実際の現場では普通に使われていることも説明しています。
Brownは別著『The Basics of Filmmaking』でも同じ問題を取り上げ、Tiltを上下方向と定義した直後に、「Pan up」「Pan down」と言う人は多く、意味が通じるなら目くじらを立てる必要もない、という趣旨の説明をしています。(PDF Coffee)
出典
Blain Brown, Cinematography: Theory and Practice: Imagemaking for Cinematographers and Directors, 2nd ed., Focal Press, 2012.
※インターネット上には同書を全文掲載しているサイトもありますが、出版社による公式公開とは確認できないため、本記事ではそれらを閲覧先として示さず、書籍そのものを出典としています。
現在のILMでも「Pan up」は通じている
さらに興味深いのが、Industrial Light & Magic(ILM)の公式Podcast『Lighter Darker』です。「Camera Moves and Composition」と題した回で、ILMのスタッフがまさにPanとTiltについて話しています。そこでRob Bredowは、
“technically you tilt up and down.”
と説明しています。つまり技術上は、上下ならTiltです。ところが続く会話では、現場の人間が常に厳密に正しい用語だけを使っているわけではないことも語られています。そしてTodd Vaziriは、Pan up / Pan downと言われても何を意味しているのかは分かると発言しています。(Industrial Light & Magic)
ここでも、技術的な名称としてはTiltと、実際にはPan up / Pan downも使われるが同時に存在しています。しかもこれは昔のテレビ制作の話ではありません。ILMで現在仕事をしている映像制作者たち自身の会話です。
出典
Industrial Light & Magic, Lighter Darker: The ILM Podcast, Episode 003, “Camera Moves and Composition.”
※ILMは、このトランスクリプトが音声認識と人手によって作成されており、誤りを含む可能性があるため、印刷物などで直接引用する場合には音声を確認するよう注意しています。
映像制作の現場から
「縦パンは間違い」は本当なのか
筆者自身、映像制作の現場では「縦パン」「パンアップ」「パンダウン」という言葉を普通に使ってきました。また、海外で映像や撮影技術を学んだ年長の映像制作者に尋ねても、「縦もパンだ」とする人は少なくありません。一方、現在の映像制作を学ぶ人がインターネットでPanとTiltについて調べれば、
Pan=横
Tilt=縦
という説明に数多く出会います。
この分類自体は間違いではありません。むしろ撮影技術を体系的に説明するのであれば、PanとTiltを区別する方が明快です。しかし、
Pan=横、Tilt=縦という技術上の分類と、「だから縦パンという言葉は間違いである」という主張は同じではありません。
歴史的な資料を調べれば、1947年にはすでにアメリカのテレビスタジオでPan up / Pan downが使われていました。1962年のテレビ制作教本では、それらを通常のカメラ指示として掲載しています。そして現在のILMでも、技術上はTiltとしながら、Pan up / Pan downと言っても現場では意味が通じることが語られています。
つまり、少なくとも70年以上にわたって、技術上の分類としての「Pan=水平、Tilt=垂直」と、制作現場における「Pan up / Pan down」は併存してきたと考えるのが自然です。
インターネットが「正しい用語」を作る?
ここからは資料によって確認できる事実ではなく、筆者の考察です。
インターネット以前からPanとTiltを区別する技術的な定義は存在していました。1947年のSposaの本にも、すでに「Pan left or right」「Tilt up or down」という区別があります。したがって、インターネットによってTiltという言葉や、その定義が生まれたわけではありません。しかしインターネットには、複雑な事柄を短く、分かりやすく説明した情報が大量に流通するという特徴があります。
「技術上は左右をPan、上下をTiltと区別する。しかしPanにはより広い現場用法もあり、テレビ制作ではPan up / Pan downという言葉が古くから使われてきた」と説明するより、
横=PAN
縦=TILT
と説明した方が、はるかに簡単です。さらにそこから、
「縦パンは間違い」
とすれば、初心者にとって非常に覚えやすい「正解」になります。
こうした簡潔な説明がWebサイト、動画、SNS、映像講座などで繰り返され、それを参考にした別のコンテンツがまた同じ説明をする。その結果、本来は技術用語を明確に区別するための定義だったものが、いつの間にか現場で使われてきた別の言い方を誤用と判定するための規則として受け取られるようになったのではないでしょうか。
もちろん、これは今回確認した資料だけから証明できることではありません。
しかし、「昔からPanは横だけを意味し、Pan up / Pan downは誤った言葉だった」という説明については、少なくとも歴史的な資料とは一致しません。
映像制作用語は、辞書や教科書の中だけで生まれたものではありません。映画、テレビ、企業映像など、それぞれの制作現場で人から人へ伝えられ、時代とともに使い方を変えながら残ってきた言葉です。
検索結果に同じ説明が多数並んでいるからといって、それがそのまま、その言葉が映像制作の現場でどのように使われてきたかを示しているとは限りません。
「縦パン」は、技術用語としての定義と、制作現場で実際に使われてきた言葉との違いを考える、興味深い映像制作用語のひとつです。
最終更新日
2026年8月14日 16:28:49

